Text by 白尾芽
まつもと市民芸術館のダンス作家育成プログラムStepMは、早いものでスタートから約1年が経過しようとしている。この間、育成対象者である3人のダンス作家たちは定期的に松本に集い、講師を招いたワークショップへの参加に加えて、のべ1ヶ月以上にわたる個別の滞在制作をおこなってきた。今年5月には芸術館での作品発表を予定しているが、その前の2025年12月13日・14日に、StepMとして初めて作品を一般に開く試演会(ショーイング)が行われた。ダンスを見慣れた観客だけでなく、松本に暮らす人たちにも作品を見てもらいたい。そんな彼らの思いに応えるように、2日間の公演にはたくさんの観客が集まった。ここでは前日のゲネプロと公演1日目に立ち会った筆者の経験を踏まえ、それぞれの作品ごとに、その概要と試行錯誤について記してみたい。
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宮悠介『SkinGrounD//掻破//~ scratching boarders of the body ~』

宮悠介は、自らの皮膚に特有な肌理と山の風景を重ね合わせ、その中で踊ることを試みた。舞台上には2台のモニターと複数の鏡が円形に配置されている。作中、モニターおよび壁にはあらかじめ撮影された映像と、共演者の今泉かなこがリアルタイムで撮影する映像が映し出される。観客は、その装置の中心にいる宮を取り囲んで鑑賞した。
作品は、体の各部位を意識するように促す機械音声の指示で始まる。宮が登場し、片手に付けたピンク色の医療用シリコンのようなものを手で剥がしていく。乾燥した表面がポロポロと落ち、内側は塊となって千切れていくそれは瘡蓋あるいは肉のようでもあり、床に転がった瞬間にグロテスクな物質性を帯びて見える。途中、今泉が至近距離で近づきながら、シリコンや宮の肌をクロースアップで撮影していく。この状態で、2人が無感情に発話をする。「小5のときさー、体脂肪率50パーのさー、おデブちゃんだったんだけど、なんか自分変えたくてさー、マラソン部入ったんだよね[…]とりあえず自分のペースで走ることはできるかと思って、諦めないってことだけ、みたいな」

この発話は直後に映像の中で繰り返され、登山の途中になされた2人の会話だったことがわかる。これを蝶番に、音楽が流れ、舞台の様相が変わる。登山の道のりをタイムラプスで撮影した映像が投影され、鏡の移動に伴って、山の風景がスタジオ内を流れていく。ここまで座ったままだった宮は光を受けてゆっくりと動き出し、鏡に囲まれて立ち尽くす。まず足踏みがあり、それが腕を動かし、ようやく体全体が踊りの状態に移行していく。あああああああー、という叫びは苛立ちや不安も感じさせるが、同時に状況全体を受け止め、手がかりを探す状態自体を見せようとしているようでもある。そして、ついに宮は鏡や映像のフィードバック構造を飛び出して、観客の間を飛び回りながら踊る。
映像、リアルタイムの撮影、モニター/プロジェクション/鏡、音楽、シリコン……とアイデアを満載した本作だが、ゲネプロ時点ではさらに要素が多かった。記しておきたいのは、本番ではそこから要素の取捨選択と、踊りの見せ方の変更がおこなわれていたということだ。前日まで円形の舞台装置の中に留まっていた宮は翌日、その外に出て、観客に接近して踊るという決断をした。最後にはスタジオのカーテンが開いて眩しいほどの光が差し込むのだが、それを受けて自由に踊る姿には、ひとつの突破(掻破?)が感じられた。

本作の端々には、自分の皮膚に対する興味や実感、撮られる(見られる)ことへの意識が垣間見え、踊りの動機となる過程や登山の経験とそれらが結びつけられていた。こうした個人的な感覚と、舞台上で展開されるアイデアの相互作用に関しては、さらなる発展が期待できそうだ。たとえば、終盤に(宮本人のものであろう)携帯のカメラロールが開陳され、過去のさまざまな時点における宮の顔が拡大されることを考えると、顔も本作のモチーフのひとつだった。では、顔と対比したときに、皮膚/肌はどのように表れてくるだろうか。顔も肌の一部であることは間違いない。しかし、顔が個人を同定し、コミュニケーションの大部分を担う社会的な機能を持つのに対して、肌はある程度の匿名性を持つ。クロースアップされる皮膚は、観客にとっては紛れもない眼前のダンサーの皮膚であると同時に、〈私の〉肌にもなり得るはずだ。この奇妙な反転や、他人が自分の体に入り込んでくるような気味悪さ──掻破は一時の快感をもたらすと同時に、感染や破壊の悪循環を引き起こすきっかけにもなる──は、きっとある種の官能性や親密さにも通じているのではないだろうか。
女屋理音『雪嶺』

女屋理音は身ひとつで踊ることを選んだ。舞台には木製の机が1台。女屋が登場し、机に乗り、照明が付くと、ダンサーは宇宙人のような奇妙な衣裳に身を包んでいる。やっぱり身ひとつ、とは言えないような不思議なセッティングのなかで、ゆっくりと体が動き出す。台座の上の彫刻、あるいは操り人形のように腕や脚がピンと引きつれ、しかしその力に耐えきれずに、他の部位がしなる。キーンとした音が響き、緊張した体が、タイトル通り雪嶺の過酷さを思い起こさせる。
机から飛び降り、また登り、また飛び降り、次第にエネルギーが体に蓄積されていく。しかし爆発には至らず、代わりにノートパソコンで1本の映像が再生される。おそらくクリスマスの時期に撮られたホームビデオで、「あわてんぼうのサンタクロース」が流れ、「おどれおどれー」という母親の声や、子どものはしゃぐ声が聞こえる。女屋は寝転がってそれを見たり、指を鳴らして揺れてみたりする。
それでもまだ爆発には至らない。女屋は舞台上を走り回り、上がった息を感じながら、四肢や頭を振って大きく回転する動きを繰り返す。特に腕を伸ばし、それを引き留めようとするような身ぶりは、「自分を止めているものは何なのか」という自問自答とも見立てられそうだ。そこに爆音の音楽が流れ、ついに動きは激しさを増していく。四肢が暴れ回り、床の上で体を回転させては、すっと立ち上がってそれを制するような応酬が繰り返される。最後にまた机によじ登った女屋の体は、不思議な静けさを湛えつつ、次第に投げやりに、「ハッピーバースデー」の歌をハミングしながら関節をひとつずつ折り畳んでいく。
上演前の説明では「特定のテーマやモチーフを外部に求めるのではなく、自身の体に立ち返ることから創作が始まった」とあったが、ミニマルな構成に見えて、舞台にはさまざまな装置が点在していた。前述したホームビデオや音楽に加え、机の上に置かれてたまにゴトっと鈍い音を立てる鋏(退場時にほぼ初めてその存在が明らかになる)、そして机や照明も強力な舞台装置だ。こうした要素は現時点では、身体への負荷として置かれている──つまり、個人的な記憶に引き戻す(ホームビデオ)、緊張感を与える(音楽)、物理的な脅威に対する感覚を呼び起こす(鋏)、視点を変える(机)といったように。つまりこれらは女屋自身の身体を動かす手がかりであり、それゆえ観客の目には、演出されていない「剥き出しの素材」としても映っただろう。

しかし、その身体の探究が、さらに遠くへ飛躍していく気配も感じられた。たとえば、ハミングしながら崩れていく彫刻のように踊り、その後、机とそれを照らし出す照明の背後に立って、観客とほぼ同じ目線で舞台を眺める一連の流れ。舞台を見つめる女屋の視点が設定されることで、自分の踊りを亡霊のように眺め、コントロールしようとする呪いのような何かが、一瞬立ち現れるように思えた。その呪いは、ホームビデオで親から子に投げかけられる「おどれおどれー」という軽口とも無関係ではない。舞台に置かれた諸要素が、自分の体だけでなく、それ同士で、あるいは観客の体と関係を結びはじめるとき、よりダンスそのものが際立ってくるだろう。
櫻井拓斗『不快な居場所脱出装置の発明』

櫻井拓斗は、複数の演者とともに作品を立ち上げた。スーツケースを持ったまま(ほぼ)動かなくなる人物A。サングラス姿でアヒルのじょうろを持って登場し、柔道の型のような動きを披露した後、不思議な動きでペラペラまくし立てはじめる人物B。「あ~あ、広告広告広告ばっかり、何?広告って。あれ月いくら貰えるの、あれ月額払い?[…]じゃあ私も広告始めちゃおうかしら、体に広告彫っちゃおうかしら。タトゥー広告ーなんつっちゃって」……そのひとり言はだんだん大きくなり、最終的には「野菜食え!」という叫びに変わって観客の笑いを誘う。その後、舞台上に置かれた壁の背後から現れ、同じようにサングラスをかけた人物C。Cが動きを繰り出す間に、櫻井自身も登場し、舞台の両端でおもむろに袋入りのパンを食べはじめる。

Aはスーツケースをゆっくりと傾ける以外は微動だにせず、B・C・櫻井の3人は舞台上を出たり入ったりする。それぞれは決められたタイミングでタスクを行うように動き、同じ舞台上にいるときも、まるで別の次元にいるように交わらない。膠着した舞台が動くのは、スピーカーから「お帰りの際は、お忘れ物なさいませんよう、気をつけてお帰りください」という音声が流れ、櫻井がゆっくりと踊りはじめてからだ。櫻井は、床に近づくときはそっと抑制した動きで、しかし激しく、手にまとわりつく空気を確かめるように踊る。そのなかで、Bがしていた動きや発話をCが繰り返す。繰り返すと言っても、少しずつディティールが違っていたり、「野菜食えー!!」はもっと激しかったりするから、完全なコピーというわけではない。最後には3人(2日目は櫻井)がAのスーツケースに触れ、ようやく4人が同じ時空を共有したところで作品は終わる。
全体を通して、登場人物の関係は最後まで明かされず、なんとなくそれぞれの関係性が見えてきそうな場面もある。インターネットミーム的な現象をモチーフにしているという説明の通り、社会保険や広告や野菜の高騰に言及するBの発話やパラパラのような動きは、そのわかりやすい表象として取り入れられているように見える。発話や動きはCによって違ったやり方で繰り返され、その通奏低音として、スーツケースが少しずつ倒れていくことで示される時間経過がある。過剰な情報量のなかで際立つのが、ある意味で素朴にも見える櫻井自身の踊りだ。たとえば途中、櫻井は感覚がなくなりそうなくらいまで手を振ったり、脚と腕1本ずつで後ずさったりと、日常的な体の使い方をズラすような動きをする。掴みどころのない状況で、その感覚はこちらにもはっきりと伝わってくる。本作の演出家でありダンサーでもある櫻井は、複雑に配置した他者の動きや言葉の群れのなかで、自らの踊りにどのような役割を託すのか。本公演に向けて、それがひとつの重要な挑戦となりそうだ。

出演者たちは、思わず笑ってしまうような存在感や、チャーミングな動きを備えている。特に2日目のアフタートークでも触れられていた通り、スーツケースを倒すA(天野朝陽)は優れたダンサーであるが、櫻井はその動きを封じ、45分を1秒ずつ数えながらスーツケースを倒させることを選択した。最後の場面は2日目には大きく変更され、映像で見た限り、1日目よりは静かだが、種明かし的なカタルシスがあったように思えた。演出家としての暴力性や恣意性は、きっと作家が思っているよりもまだ前面には出ていない。そこを突き詰めることで、交わらない複数要素がひとつの巨大な装置として駆動しはじめるような、強度を持った作品へと進化するだろう。

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このように振り返ってみると、それぞれの作品は未完成ゆえの荒削りな熱量とアイデアにあふれていた。それは、各自が現在の自分の実感を手放さずに制作したことの結果である。アフタートークでは、自分がどうすれば踊りだすことができるのか、ダンスとはなんなのかという根本的な問いを抱えてStepMに参加したことを、3人それぞれが明かしていた。女屋が言った通り、「どうすれば今の自分の状態に嘘をつかずにいられるか」。それを短い時間でまとめ上げ、まずは外に開いたのが、今回のショーイングだったはずだ。ここから5月の公演にかけて個々の作品はどう進化していくのか、その道のりはどのように作品に表れてくるのかに期待したい。
