こんにちは、StepMメンバーの女屋理音です。
12月の試演会から4ヶ月が過ぎ、季節は柔らかく春になって、温かな風が花の匂いを運んでいます。
松本の厳しい寒さに凍えながら身を尽くした試演会は、それからの日々が濃密だったこともあり、遥か昔のように感じられます。
試演会を経て、自分の未熟さ、至らなさを感じつつも、その不足しているところに寄り添ってくださった、倉田さんをはじめとする方々、試演会に足を運んでくださった皆さま、一緒に走り抜けたStepMのメンバーのみんな、心から感謝しています。
新しい季節に背中を後押しされながら、時には冷静に、時にはがむしゃらに、5月の本公演に向けて再度作品と向き合い、新しい自分に出会うことに幸せを感じる日々です。
ここまでの4ヶ月間、作品創作に特に大きな影響を与えた出来事について、少し振り返ってみたいと思います。
⚫︎「倉田翠ソロダンス/まつもと」
人に何かを教わろうとする時に、実際にそれを行っている姿を見るのが一番早い、というのは、「技は見て盗め」という言葉が常套句として使われていることからもよく分かります。
私たち育成対象者は倉田さんから指導されるかたちで創作に取り組んでいるわけですが、倉田さん自身の作品に対する熱量のかけ方、冷静に構築していく緻密さは、見ていて圧倒されるばかりです。
1月にまつもと市民芸術館にて上演された倉田さんの作品、「倉田翠ソロダンス/まつもと」を鑑賞した際に、すぐに真似できずとも、“私は何を見たのか”ということについて言葉にすることにトライしました。
私自身が倉田さんに送った感想の一部を、ここに載せたいと思います。
“…「あなたのことを知っています」という顔をして、するするすると心の中心の方まで入ってくる。でも、握手しようとすると、パッと踵を返される、それを必死に追いかける。その繰り返し。あ、そうだ他人なんだと思い出す。でもそれって生きていて感じることと同じで、他人のことなんて一生分からないけど、分からないなりに分かろうとして、分かった気になって勝手に喜んで、裏切られて勝手に傷ついて、僅かに残った共有点を命綱みたいに手繰り寄せて手繰り寄せて、お互いに寄りかかりながら日々を過ごしていたりする。そうやって知っていることが増えて、知らないことは減るけど、同時に忘れたことも増えていて。…”
言葉にしてみると、自分が何を期待して、どこをどう切り取って解釈しているのかが明確になる気がしました。
それはきっと自分が創作する際にも、外部からの視点として助けになってくれるように思えます。

2026年1月上演「倉田翠ソロダンス/まつもと」
⚫︎タイ旅行
試演会が終わり一息ついた1月下旬、急遽3連休ができて、どこかに飛びたいなとふと思いつきました。国内もいいけど、なんとなく言語が通じないところに行きたいと、半ば衝動的にタイ行きを決めました。
実はこの期間、宮さんもタイに、櫻井さんもカンボジアにいて、特に合わせたわけでもないのですが、なぜかStepM東南アジア集合になっていました。

当然ですが、タイは知らない人だらけでした。言葉も通じない、文字も読めないゆえ、コミュニケーションには一定のストレスが生じます。
山田せつ子さんのワークショップで「あなたは他人になったことがないのですね」と言われたことをひしひしと思い出しました。私が私自身であると同時に、私以外の他人も他人自身で、私の周りには知らない人間自身がたくさん居るということ。
当たり前のことでありながら、自分が踊るということだけに集中して独りよがりになってしまっていた私にとって衝撃的な一言でした。
私のことを知らない人たちを目の前にして、私は何についていかようにして語り出すことができるのか。親戚が観に来てくれる習い事の発表会とはまた違う、作品づくりの前提となる心構えについて、再度見つめ直す時間になりました。
⚫︎地元の味噌づくり
3月。毎年地元ではご近所さん数人が集まって、公民館の部屋を借りて味噌を作ります。4家庭がそれぞれ1年で使い切るかどうかの大量の味噌を作るので、集まって作った方が効率が良いそうです。私は昨年祖母からバトンタッチされ、今回が2回目の味噌づくりでした。

1日数時間を3日間。特に普段から仲良くしているわけではないけれど、味噌を作るためだけに集まっているご近所さん。米や大豆を蒸かしたりする時間にどうしても生まれる歓談の時間。
なんだかその景色が温かく面白おかしくて、人と出会うということの偶然性の高さと奇妙さについて、思いを巡らせた日々でした。
これも結局は、「他人」について考えたということなのかもしれません。
大人になるとなかなか、新たに人と出会うことが難しくなる気がしていて。
例えば地元の小中学校なんて、たまたま近所に住んでいたというだけで何百人という他人に一気に出会ってしまうわけなんですが、大人になるにつれて、自分の興味関心に沿う形で出会う人が整っていくような感覚があります。
もちろんそれは単純に楽しいし幸せなことだと思いつつも、いつの間にか、「他人」の存在まで排除してしまっていたのかもしれません。
ただでさえ情報量の多い世の中、自分に必要ない情報を自然とシャットアウトしようとする本能的な自己防衛なのでしょうか。
作品を創作して発表するということは、非常に個人的な活動に見えて、実際は世の中に何かを表明するという、究極にオープンな行動であることを実感しています。たとえ作品を観に来てくれる人が全員知り合いだったとしても、作品自体は大多数の自分のことを知らない「他人」を想定したものであるべきだと、せつ子さんの言葉を発端として考えた数ヶ月でした。
具体的にどうすれば良いのか、まだはっきりとは分かりません。でも創作に行き詰まった時、そのことについて考えてみることで、新たなアイディアが出てくることがあります。
たとえば今、大勢の他人が行き交う街の様子を眺めながら、この文章を書いています。芸術監督団の木ノ下さんが講義で仰っていた、「一生自分の作品を観ることはないであろう人」について考えてみます。杖を持ってバスを待つ人、コーヒーショップの店員、隣に座るサラリーマン…。
自分が自分ではなくなること、変わってしまうことを恐れることなく、自分なりの表明を探していくこと。簡単なことではないですが、だからこそやりがいがあるとも思います。
5月の本公演で、今の地点からできる応答をしたいと思います。ぜひ、お立ちあいいただけますと幸いです。
観にいくもんか、という方も、その存在すらも想定した視野の広さを持って。

