Text by 白尾芽
Photo by 井上嘉和
怖いもの、見たくないもの、普段は見えないと思い込んでいるもの、本当は見たいのに見ないようにしているものを、ダンスは見せてくれる。2026年5月22日〜24日に開催された、StepMのひとつの集大成となる新作三本立て公演「Step into the world from Matsumoto」を見て、そう思った。約1年半の松本での育成期間を通して、彼らはスタジオでの稽古からダンスとは直接関係なさそうなことまで、さまざまな経験をしてきた。街や自然のなかで、あるいは生活と制作の間に横たわる距離のなかで得た感覚は確かにそれぞれの作品に含まれ、鑑賞者に何かを問いかけていた。昨年12月に開催された試演会から大きく雰囲気を変えた作品もあれば、構造を引き継ぎながらより精度を高めた作品もある。以下ではそれぞれの作品について記してみたい。
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女屋理音『雪嶺』

舞台中央にはちいさな椅子と机、上手にドラムセットが置かれている。開演を待っていると、つかつかと女屋が袖から出てきて、ドラムセットに備え付けられたマイクに向かって言う。「すいませんここのマイクの音量を、ちょっと上げてもらいたいんですけど、あーあーあ…はいOKです、ありがとうございます。だから、だから、怒ったときにおおきい声を出すのは、ほんとうにやめてほしい」。後半の文章が細かくループされて音楽になり、一気に作品の空気が立ち上げられる。怒ったような女屋の足取り。どこからともなく登場するドラマー。出たり入ったり、得体の知れない感情が殺到する舞台のうえで、音と体のセッションが始まる。

机に向かう女屋は、何か言おうとしているのに言葉が出てこない、というふうに、腕や指を動かしてみせる。かと思うと、ふっとこちらを向き、2人の人物(1974年生まれ/1998年生まれ)について、滔々と語りはじめる。おそらく後者が女屋自身で、前者が家族についてだと推測できる。途中からドラムは激しくなり、女屋はそれに応じるように手足を大きく動かす。伸びやかでありながら、細かい何かに触れんとする繊細な動きが作品の基調を作っていく。「怒ったときにおおきい声を出すのはほんとうにやめてほしい」という声のこだまは鳴りやんでも続いているように感じられ、憤りや不安や怯え(あるいはトラウマ的な経験?)といったものの影が見えてくる。
試演会では自分をその場に立たせる装置として机を用いた女屋だが、今回も机は重要な役割を帯びていた。机の前で、あるいは上で観客に背を向けて立つ、その肩甲骨のゆっくりとした動きは、まさに音のない(声を持たない)雪嶺にも見えてくる。椅子と机は1人用の大きさだから、食卓ではないのだろう。心の中に置かれた、もっとも静かで、もっとも大きな感情が渦巻く場所。そしてその下には、コップに入った液体が置かれている(後から聞けば墨汁だったというから、癒すことのできない渇きを象徴していたように思える)。

音との触発する/触発される関係のなかで、女屋の体は多様な姿を見せる。あるときは拗ねた子どもや、周囲を警戒する動物のようであり、あるときはコントロールできない怒りを末端まで満たした怪物のようでもある。しかし舞台に静寂が訪れると、そこには淋しさ、静寂、恋しさがなだれ込んでくる。静と動の往還のなかには、観客が自分を投影せずにはいられない風景が描き出されていた。
宮悠介『春』

地鳴りのような重低音に続く大音量の音楽。壮大な何かが始まる予感だけが引き伸ばされた時間のなか、舞台上にはゆっくりと光の模様が浮かび上がり、そこに宮が一歩、また一歩と足を踏み出していく。春、人類、目覚め──そんなことを考えながら音楽に身を委ねていると、突然音楽が止んで劇場全体が明転し、宮がピョコピョコと動きはじめる。スペクタクルな幕開けに比べて拍子抜けするほどのユルい動きに、何か見てはいけないものを見てしまったような不思議な気持ちになる。
細かい振付の数々は、宮がインタビューで語ったとおり、ミーム動画やモーフィング・アニメーションから集められたものなのだろう。いわゆる「ショート動画」で見たことのあるような動きが、まるでスクロールするように宮の体でツギハギされて、妙に心地よいリズムを作り出している。興味深いのは、宮が最初は観客のほうを見ずに一連の動作をおこない、その後、こちらを振り向いて数秒凝視したのち、今度は観客席に向かって同じ動作をすることだ。包み隠さずに見せられる関節や骨盤の動きは滑らかで、アニメーションのように不自然でもあり、笑いを誘う。

ミーム的な動きはその後、細かい手のジェスチャー、どこか居心地の悪そうな苦笑い、独自の言語のようなものへと流れ込んでいく。何を指示しているのかはわからなくても、手品のように切り替わっていく体の各部位の表情に目が釘付けになる。舞台が大きく変化するのは、動きに回転のモチーフが加わってからだ。バク転、側転、円を描いて走り回る、そのまま腕を拡げてグルグルと回転する……そして『アルルの女』の「ファランドール』が大音量で流れると、大声で叫びながら疾走する。前半の動きはこの爆発のために用意されていた、とも思えるが、曲が終わった後もエネルギーは体の中に残り続け、宮はまるで終わりかけの線香花火のように、それを発散しつづける。自らのトレードマークでもあるツーブロックの髪をほどいた姿で、またゆっくりと、動きのコラージュを繰り出していく。むしろ、爆発が終わった後の余韻を一番楽しみにしていた、とでも言うように。

宮がスタジオワークの途中に「関節がねっとりする感じ」と言っていたのをなぜかよく覚えている。本作は緩急を高速で往復するが、「緩」の時間こそを、つまりありのままの体こそを見せようとする試みだったように思う。「関節がねっとりする感じ」はたしかに手渡されていたし、無音のなかにときおりちいさく聞こえる時計の針の音、鳥のさえずり、街の人の話し声は、この舞台が、日常の微かな手触りを手放さないようにして構築されたものであることを示していた。
櫻井拓斗『不快な居場所脱出装置の発明』

卵白/虫歯/肺のふくらみ/心臓/冷蔵庫/窒素……舞台上にひとつずつ、文字列が投影される。これらは不快なもの? 白いもの? いや、どれにも当てはまらない、と考えていると、スポットの下にひとり男1(天野朝陽)があらわれて、痙攣している。前方に新たなスポットが出現し、小走りで次に進む姿は双六のようだ。そこにやって来る男2(櫻井拓斗)と女(反町梨里佳)。男1はゆっくりと光の外に出ていくが、「見つかった!」とでもいうように、始めのマスに走って戻り、また痙攣する。ルールから外れるとやり直しになってしまう世界? それにしては、3人のまわりで起こることはあまりにもナンセンスだ(天井からはちいさなアヒルたちが降り注いだり、黄色い柴犬の巾着からパンが出てきたりする)。

ドイツ語で、女が話しはじめる。「これは私たちの発明です/この発明は多くの人間が動かしています/この発明の欠陥は/完璧には操作できないということです」。たぶん、発話と字幕の内容は微妙に違う。でも、舞台上の人物たちの振る舞いはおそらく、なんらかの機械のパーツのように噛み合ったり噛み合わなかったりして、それが「不快な居場所脱出装置」として発明されるのだろうという見立てはできるようになる。
3人は同じ舞台上に存在しながら、言葉を交わすこともなく、それぞれの動きに没頭している。それがほぼ唯一破られるのが、ふたりの男が至近距離で、ただ互いには触れないように、ゆっくりと踊る場面だ。ふたりはもしかしたら同じ次元や位相にはいないのかもしれない。彼らはただ、座標で重なり合う相手の気配だけを感じながら踊っている。その時間には、いかに見えない他者を認識するのか、その他者と共存するのか、という切実な問いが立ち上がってくるようにも思える(けれど、やっぱりそれを見ている女の動きは不可思議であまりにも自由だ)。重なりそうだった3人の関係がまたバラバラに解けていき、気づけばそれぞれの場所にまた配置されている。男2はひとり激しく踊る。「夢」というキーワードも登場するから、彼は夢の中でもがいているようにも見えるし、逆に夢のなかに閉じ込められたほかのふたりを必死に揺り起こそうとしているようにも見える。
途中から舞台上を縦横無尽に匍匐前進するスパイダーマンの人形は、振り付けられた登場人物たちの姿とは対照的だ。人間はみんなやることが決まっているし、理不尽に「失敗」判定を下されたり、結局最後まで誰とも言葉を交わせないでいたりする。スパイダーマンは違う位相にある人間たちの間を縫って自由に進むけれど、彼もまた重力に縛られて、自力では空中に飛び立てないでいる。そのようにまた見立ててみれば、この「装置」は何かダンスというもののリアリティにも接近しているようにも感じられるのだ。

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「育成」とは何か、という地点からこのプロジェクトに伴走してきた倉田翠が当日パンフレットにコメントを寄せたように、3人の作品は色々なものを集めて作ったちいさな筏かもしれないけれど、ようやく彼らを遠くまで運ぶ準備が整ったところだ。この筏たちが世界に漕ぎ出すとき、何が見えてくるだろうか。言葉や文化の差異を超えて共有される感覚もあれば、思わぬところで笑いや拒否反応が出てくることもあるのだろう。それを受けて作品は、そして彼らの制作は、どのように変わっていくだろうか?
