Step M

Report

2026.10.09

踊っていない時間にも ――奈川獅子に参加して

MIYA Yusuke

MIYA Yusuke

◯一年前、僕は奈川獅子を観客として見ていた

本番の、曲と曲の間。隊列を崩さず、前を向いて立っていると、自分の息の荒さと、強く脈打つ感覚がはっきりわかった。動いていない時間にも、身体の中は静かではなかった。

一年前、僕は奈川獅子を観客として見ていた。今年は「Step M」の活動を通して、稽古から本番まで参加させていただいた。体験したのは、扇子を持って踊る「手踊り」と、二人で一頭を演じる獅子の後ろ側だ。外からは優雅に見えていた踊りの内側に入ると、身体の使い方だけでなく、踊りがある場所の見え方も変わっていった。

「頭じゃなくて、腰を落とす」

稽古で指導してくださった奥原さんの言葉が、今も心に残っている。

手踊りには、扇子を低く、前後にかざす動作がある。僕は手を下げようとして、頭を下げてしまっていた。でも、頭が下がって扇子の位置が低くなっても、腰は落ちていない。腰ごとしっかり低くして、扇子を地面すれすれに動かしていく。その違いを教わった。

踊りが一段落すると、奥原さんは、僕の動きがどうなっているのか、なぜ頭が下がって腰が上がってしまうのかを、自分でも動いて見せながら説明してくれた。頭ごなしに直すのではなく、実際に踊る人の言葉と動作で伝えてくれる。何を変えればよいのかが、すっと入ってきた。

奈川の稽古は、覚え方からして普段と違っていた。僕が主に都内で参加するコンテンポラリーダンスのリハーサルでは、段取りや動きの説明を受けてから始めることが多い。ここでは、生演奏に合わせて、まず頭から全体を通す。動いている人たちの中へ入って、とにかく真似をする。

最初の二、三回は、動きと順番についていくのに必死だった。それでも繰り返すうちに大枠がわかり、いろいろな方から教わりながら細部が整っていく。説明がないのではなく、先に流れを体験することで、後から言葉と動きが結びついてくる。僕はダンサーとして来たけれど、この踊りについては、皆さんに教わるところから始まった。

 

◯一度振ること、振り続けること

獅子の後ろ側は、めちゃくちゃ大変だった。

脚で獅子の足取りを演じながら、手では布を高く持ち上げて空気を含ませる。慣れないうちは視界も確保しづらい。布をぐわっと膨らませるには、腕や肩だけでなく、腰も脚も使わなければ続かない。外から見ていた一頭の生き物の姿と、内側で取り組んでいる仕事は、随分違っていた。

ただ、この大変さも、まだ慣れていない僕の体感ではある。教わるなかで、もっと力を抜ける余地があることもわかった。流れを覚えた後は、どうすれば楽に続けられるかを探す時間になった。

扇子を持った腕の力を抜くと、重さを感じながら腕が落ちる。それをちょうどよいタイミングで曲線的に持ち上げ、また落とす。少しずつ調子をつかむと、繰り返すことが気持ちよくなってきた。グルーヴが生まれるような感覚だった。

一度振ることと、振り続けることは違う。力を入れ続けるのでも、抜くだけでも続かない。下へ向かう動きを横へ、そしてまた上へつなぐ。感覚としては、運動がそこで止まるような「平面を作らない」ことに近かった。扇子や布を支える身体自身も、落ちては上がる。その向きが立体的に変わると、曲線は螺旋のようにも感じられた。

動きの組み合わせにも面白さがあった。「右、左、右」と続いた動きが、あるところでは「右、左」で終わる。これは音楽の拍子を分析した話ではなく、覚えながら身体で数えていたときの発見だ。奇数と偶数が入り交じることで、不意に調子が変わり、高揚感が生まれるように感じた。

ものを扱い、動きを繰り返すうちに、自分の身体の重さや、力の使い方を考え始める。見える形をなぞるだけではなく、その形に取り組むことで、身体の方が変わっていく。そこに、振付の働きがあるのではないかと思った。

◯曲が終わった後の身体

その感覚は、音とも切り離せなかった。

特に耳に残っているのは、鳴り物の高い金属音だ。ここで鳴った、と一つずつ意識するというより、ずっと鳴り続ける音の中に身体がある。長く聞きながら踊っていると、自分の状態も少しずつ変わっていくように感じた。

一曲ごとに踊りはあるけれど、体験はそこで区切れない。いくつもの曲と動きを通して、身体に時間が積み重なっていく。例えば五分の曲のメロディーを楽しみ、Aメロに動きをつける。そうした単位とは別の長さで、音も振付も考えられるのではないか。

そして本番では、踊りに向かう人たちの集中が、稽古とは一段違っていた。稽古には、真剣さと同時に、集まった人同士で話す和やかさもあった。本番では、何度も言葉で確かめなくても、皆がしっかり踊りきることを前提にしているような空気があった。

僕自身も集中していたし、やりきりたいと思っていた。その身体をはっきり感じたのが、曲の間に立っていた時間だった。前を向き、隊列を保って待つ。その間にも、息は荒く、脈は強く打っている。曲が終わっても、それまで動いてきた身体は、すぐに元に戻るわけではなかった。

 

◯本番の前から、終わったあとまで

体育館には子どもも、お母さんたちもいて、ときには犬もいた。舞台表現を専門とする人が集まる普段のリハーサルとは違う、その土地で暮らす人たちの中に入らせてもらった感覚があった。

その人たちは、踊る時間だけ集まっていたわけではない。

本番前には、皆さんで道具を整備していた。当日も朝から境内の旗や提灯を準備し、昼には一緒にご飯を食べて交流する。その流れの中で、本番を迎えていく。終演後、衣装を片付けるかたわらでは、踊り終えた子どもたちをねぎらう言葉があった。翌日にも片付けがあり、皆で食事をする時間があった。

目配せや間合い、言葉にしなくても伝わっているように見えるやりとり。その一つひとつに、これまで一緒に過ごしてきた時間が感じられた。初めて参加した僕には、その関係の全部はわからない。それでも、これは一回の本番だけで始まり、終わる集まりではないのだと思った。

踊りを披露するだけでなく、一緒に準備し、食べ、片付ける。本番へ向かう時間も、終わった後の時間も、人のつながりを深める営みになっているように見えた。踊りとコミュニティの関係を考えるなら、僕はまず、この前後の時間から考えたい。

僕は伝統の踊りを、どこか「決まった形を守るもの」と見ていたのだと思う。でも今回、その形に入ってみることで、自分の知らなかった身体の使い方に出会った。同時に、その踊りを続けている人たちと過ごす時間にも触れた。

新しい振付をつくる自分にとって、持ち帰りたいのは形だけではない。ものを扱い続ける行為や、音の中に居続ける時間を通して、身体や知覚に何が起こるのか。一つの動きだけを工夫するのではなく、それが続いていく時間や環境まで考えていきたい。

その手がかりは、動きの仕組みを一人で分析して得たものではなかった。演奏する人、周りで踊る人、教えてくれる人がいて、一緒に繰り返すなかで、身体でわかってきたことがあった。保存会の皆さんと、この機会をつないでくださった皆さんに、感謝しています。

 


奉納後、奈川獅子舞保存会の奥原さんを囲んで